Ⅰ.政党内閣(大正末~昭和初期)
1.加藤高明内閣
・在職:1924.6~1926.1 ※大正時代
①護憲三派内閣
・憲政会、立憲政友会、革新俱楽部の連立内閣
→その後、憲政会の単独内閣
②協調外交
・外相幣原喜重郎による協調外交の展開
③外交
・1925年、日ソ基本条約に調印
④国内
・1925年、普通選挙法・治安維持法の制定
2.第1次若槻礼次郎内閣
・在職:1926.1~1927.4 ※憲政会
※1926年12月から昭和時代
※協調外交:外相幣原喜重郎
金融恐慌の発生
・1927年、片岡直治蔵相の失言による
→内閣は緊急勅令を求めるが、枢密院が拒否。内閣総辞職
3.田中義一内閣
・在職:1927.4~1929.7 ※立憲政友会
①金融恐慌の処理
※蔵相高橋是清
・緊急勅令による3週間のモラトリアム(支払猶予令)の発令
②第1回普通選挙の実施
・1928年実施:無産政党員8名が当選
③弾圧の強化
ⅰ.治安維持法の改正:1928年
・最高刑を死刑とし、無期刑も追加
ⅱ.共産党員の検挙
・三・一五事件:1928年
・四・一六事件:1929年
④外交・国際関係
ⅰ.対英米外交:協調外交の継続
a.ジュネーヴ(軍縮)会議
・1927年、開催
・参加国は米英日。会議は決裂
b.(パリ)不戦条約
・1928年、調印、
ⅱ.中国国内の動向
・第1次国共合作:1924年
中国国民党が中国共産党と提携
※孫文の死後は蔣介石が国民党を引き継ぎ、北伐を継続
→1927年、国民党が南京に国民政府を樹立すると国共は分裂へ
補)当時の中国は、各地に独自の勢力を築いていた「軍閥」(戦国大名のような存在)がいて、完全な統一が果たされていなかった。そこで中国国民党と中国共産党がいったん対立をやめて、協力して軍閥を打倒していったのが北伐
ⅲ.日本の対中国外交:積極外交(強硬外交)
a.山東出兵
・1927~1928年、1次~3次まで実施
b.張作霖爆殺事件
・1928年、満州軍閥の張作霖を列車ごと爆殺
→張作霖の子張学良は国民政府への帰属を表明
→北伐の完了
4.浜口雄幸内閣
・在職:1929.7~1931.4 ※立憲民政党
①金輸出解禁(金解禁)
・1930年に断行
・蔵相井上準之助の政策
②昭和恐慌
・アメリカ発の世界恐慌の影響により、国内経済は大不況に陥る
5.第2次若槻礼次郎内閣
・在職:1931.4~1931.12 ※立憲民政党
満州事変
・柳条湖事件:関東軍が満鉄の線路を爆破し、軍事行動を開始
→閣内不一致により若槻内閣総辞職
6.犬養毅内閣
・在職:1931.12~1932.5 ※立憲政友会
①満州国の建国
・1932年3月、清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として建国を宣言
※関東軍の傀儡。内閣は満州国の承認に消極的
②五・一五事件
・1932年、海軍青年将校らが犬養毅首相を射殺
→政党政治の終焉
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2.第1次若槻礼次郎内閣
・若槻礼次郎:わかつきれいじろう
・幣原喜重郎:しではらきじゅうろう
・金融恐慌:きんゆうきょうこう
・片岡直治:かたおかなおはる
・蔵相:ぞうしょう
※大蔵大臣のこと
3.田中義一内閣
・田中義一:たなかぎいち
・高橋是清:たかはしこれきよ
・支払猶予令:しはらいゆうよれい
・三・一五事件:さんいちごじけん
・四・一六事件:よんいちろくじけん
・第1次国共合作:だいいちじこっきょうがっさく
※国民党と共産党の協力
・蔣介石:しょうかいせき
・北伐:ほくばつ
・軍閥:ぐんばつ
・山東出兵:さんとうしゅっぺい
・張作霖爆殺事件:ちょうさくりんばくさつじけん
・張学良:ちょうがくりょう
4.浜口雄幸内閣
・浜口雄幸:はまぐちおさち
・井上準之助:いのうえじゅんのすけ
5.第2次若槻礼次郎内閣
・満州事変:まんしゅうじへん
・柳条湖事件:りゅうじょうこじけん
・関東軍:かんとうぐん
6.犬養毅内閣
・犬養毅:いぬかいつよし
・満州国:まんしゅうこく
・溥儀:フギ
・傀儡:かいらい
※あやつり人形のこと
・五・一五事件:ごーいちごじけん
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